まだ陽も上がりきらない早朝、菊の寝室に訪れたアーサーはベッドに乗り上げ未だ寝息を立てている菊に馬乗りになる、瞳を閉じた姿は清涼さ纏っているが上下する胸、微かな吐息は酷く艶めかしい、夜朝の隔てもなく色気を放つその姿に誘われているような気分になりながらアーサーは素早く親指を噛み己の血を口に含むと横たわる菊に命を言い渡す
『口を開け』
本人の意識は眠ったままだが菊は指示通り従順に薄らと口を開いた、カーテンから漏れる薄明かりに照らされてアーサーの色素の薄い肌や髪は透き通るように輝くその稀有な色の瞳を伏せて顔を徐々に近づけていくとふわり、と菊の髪の香りが鼻腔をくすぐった、その香りは己が使っているものと同じだが菊が使うとまた別の香りのように甘く感じアーサーの背筋が疼く、誘われるように唇に口付けアーサーはとろりと血液の混ざった唾液を菊の口内へと流し込んだ、口付けずとも相手の口内に己の血液を流し込む方法はあったがアーサーは敢えてそれを選ばなかった先日口付けた事によって生じたあの衝動の正体を確かめたいという想いがあったからだ、触れ合った瞬間感じた飢えのような感覚にアーサーは堪らずに背筋を震わせる、もっと、もっと欲しい、砂漠を歩く旅人が水を欲するようにアーサーもまた菊を切実なまでに求めていた、だが何故自分がここまで目の前の男を欲しているのかアーサーには分からない、結局自分の行動は疼きを酷くしただけだと嗤ってやわらかなそこから唇を離す、顎に手を添えて強制的に血液を嚥下させ馴染みの言葉を詠唱するが菊が起きる気配は無い魔法陣の光が収束し終えてもそれは変わらない、注ぎ込む魔力が少ない為契約の際生じる痛みは微々たるものだからだ、息をついてアーサーは寝息をたてる菊の額にそっと自分の額を重ね微かに声帯を震わせる
「いっそお前の全てを喰らえばこの飢えは治まるのか…?なあ、菊…」
菊と出会いアーサーの思考の大半は菊が占めているただ一人の男の事だけをここまで考え続けてしまう異常さはアーサー自身が一番理解していた、契約の主は自分であるのに縛られたのは一体どちらか、心中に去来する飢えを持て余しながらアーサーは菊の上から退き真紅のコートを翻しながら寝室を出て行った
**********
王宮で王が食事をする場は全部で三つある、曙光の間、白日の間、黄昏の間がそれにあたり本来なら名前の通り曙光の間で朝食、白日の間で昼食、黄昏の間で夕食をとるのだが食事の度に一々場を変えるのが面倒だとアーサーは常に曙光の間で食事をとっていた、曙光という名にふさわしく天井には空の一部を切り取ったかのように朝焼けが広がっている、空の映像をそこへ映しだしている訳ではない本物に限りなく近い偽物の空がそこに在る、部屋の中に空があると菊は初めてこの場所に訪れた時に心中で驚いていた、国の創始者である初代国王が自ら手掛けて天井に空を創り出す魔術を施したと伝えられているそれは複雑な仕組みで未だにアーサーでさえ空がどうやって創り出されているの理解出来ていない。澄んだ空気すら漂っていそうな美しい空の下アーサーと菊は給仕に囲まれ二人きりで朝食を取っていた、しん、と静まったそこで時折金属が陶器に触れる音のみが響く、菊は出された朝食を素早く胃に収めると早々に席を立ち言葉を交わす間もなくアーサーの前から立ち去るのが常であったが今日はそういった素振りを見せずいつになく穏やかな表情でゆったりと食べ物を口にしているようだった、フライドブレッドにベークドビーンズを乗せ味わうようにそれを咀嚼する、アーサーも菊の様子を眺めながらベーコンを口に運ぶ、今まで食事の時は張り詰めた空気が常に漂っていたが今日はその限りではない、ここ数日のうち最も穏やかな朝食といっても過言ではないだろう。菊とアーサーが朝食を食べ終わったのはほぼ同時だった、食後には紅茶を嗜むのが日常となっているアーサーは給仕達を片付けの為に下がらせティーポットやカップを用意し自ら紅茶を淹れる、給仕達に任せないのは紅茶に関しては己で淹れた方が給仕達のものよりも格段に味が上だからだ。抽出時間を金の懐中時計で計り終わるとカップの中へとそれを注ぎ込む、漂う芳しい香りに上出来だと思った時アーサーは視線を感じて顔を上げる、ぶつかる視線、口に出さずとも相手の表情で考えを読み取ったアーサーは二つ目のカップ用意しそれに紅茶を注ぐとパチンと指を弾き菊の目の前までそれを移動させた
「…残すなよ」
「ありがとうございます」
アーサーの物言いに菊は素直に礼を言う、少し前までは口を開けば皮肉の応酬だった為それに慣れていたアーサーは俄かに落ち着かない気分にさせられた、微笑まれることにも男は慣れていない、表情を見た途端正体不明の痺れが背筋を走りアーサーは一人嘆息した、まるで呪いのように我が身に振りかかる異変の数々、解決する糸口は未だ見えない。繊細なカップを手に持ち菊は紅茶を喉奥へと流し込む、以前庭で振る舞われた紅茶と同じくその味は想像を絶する程美味だ、今まで飲んだ紅茶の中でもやはり目の前の男が淹れたものが一番美味いと今なら素直に認められる、以前は自分達の関係上まあまあだと言って強がった覚えがあるがもうそんな風に肩肘を張った物言いをしなくとも良いだろう
「…やはり、貴方の淹れた紅茶は美味しいですね」
「お褒め頂き光栄だな」
内心の動揺をおくびにも出さずアーサーは淡々と答えた。菊はそんな目の前の男に気付かずに手ずから淹れられた紅茶を堪能する、それを一口飲んだ後いつ言おうかと朝食の間中タイミングをはかっていた言葉を告げる為菊は薄らと口を開いた
「少し話しておきたいことがあるのですが時間、構いませんか?」
「…続けろ」
「では、お言葉に甘えて。貴方が負担金を肩代わりして下さったことは昨日もお伝えした通り感謝しています、けれど当然ながら貴方の行為に甘えたまま時を過ごすことは私には出来ない、肩代わりしてくださった分は幾ら時間がかかろうと必ず全額返済します、いえ貴方が望むなら今すぐにでも返済を少しでも早くする為地を駆けることも厭いません。本当は昨日伝えるべきだったのに遅くなってしまって申し訳ありません、私が話したかったのは以上です」
丁寧に一礼した菊は再び顔を上げる瞳からは決意と覚悟が見てとれた、恐らくアーサーが今すぐにでも金を集めて来いと言えば即座に菊は動くだろう、そう感じさせる程強い眼差しだった。
「気紛れだと言っただろうお前がそうする必要はない」
その眼差しから逃れるようにアーサーは一度目を閉じ告げた、それでも菊は揺るがない
「嫌です」
偽ることなく実に簡潔に己の本心を告げ菊はアーサーを見据える、何を言っても折れそうにない相手にアーサーは人知れず溜息をつく、譲る気は一切ないらしい、真っ直ぐに己を見詰める瞳は相変わらず強い意志を秘めている。
「…勝手にしろ」
やはり先に折れたのはアーサーの方だった
**********
自室へ戻り執務を始めたアーサー、一人残された菊は以前のように逃走に精を出さずとも良いので暇を持て余していた、薔薇が見頃の庭を歩きながら菊はこれからの身の振り方を思案する、アーサーへの返済の為に城を出たいのは山々だが厄介な首輪の所為でそれも儘ならない、かといって相手がこの禁術を解く気配もなく、掛け合った所で断られて終わりだろう。城から離れられない身で返済の額を稼ぐにはやはり城で働かせて貰うしかないと考えた所で菊は人の気配に顔を上げる、前方では城門から城の入口へと続く道がありそこを一人の男が歩いている、男は花々が咲き誇るそこを歩く姿が絵になると思わず感じてしまう程の美丈夫である、目に鮮やかに映る青いコートを羽織り、スカーフをサファイヤのブローチで留めている姿は品があり歩く姿もどこか優雅だ、金の髪やアメジストのような瞳は日差しを受けやわらかく輝き更に男の美貌に拍車をかけた、そのまま男は城へ入ると思われたが菊の視線に気づいたのか唐突に歩みを止めて菊の方へ目を向けた、動いた時後ろ髪を一つに結った赤いリボンがふわりと動く、男は菊を瞳に映した瞬間驚いたように目を見開いて進行方向を変えると足早に菊の元へと歩いてきたのだった
「いやー驚いたな、こんなに綺麗な人がいるなんて」
本当に珍しい、と純粋に驚いている様子の男に菊は首を傾げた、言葉もそうだが一番は視線だった、綺麗だと言いつつ男の視線は菊の胸の丁度中間辺りに注がれている、眩しいものでも見るように瞳を細めて男は本当綺麗だなあ、と感心したように頷くがそんな所を見て綺麗もなにも無いだろうと菊は困惑し眉を寄せる。目の前の相手は至って真剣な様子なのでからかわれているようには思えない、暫く男は菊のそこを見詰めていたが途中ではっとしたように顔を上げ事態について行けず取り残された菊の様子を見ると苦笑いして謝った
「ごめんごめん、ちょっと職業柄興奮しちゃって。申し遅れてごめんね俺はフランシス、国を股に掛けて美術商をやってる麗しのお兄さんさ」
よろしくね、とウインクを飛ばしながら告げるフランシスに笑い返し、どうやら悪い人ではないようだと心中で思いながら菊も口を開く
「本田菊と申します」
「ってことはキクの方が名前だね、キクか、キク、うんやっぱり美しい名前だ」
外見は貴族然とした男だがその身分の者なら陥りやすい嫌な気位の高さは全くなく、寧ろ親しみやすい雰囲気を持つフランシスに菊は少なからず好感を持った、初対面で拉致した挙句秘術を施し散々自分を翻弄してくれた男とは天地の差だと菊は笑う、尤もその男は今や自分達の恩人となってしまった訳だが。
「所でさ、キクはこの後暇?お兄さんちょっとこの後この城で用事があるんだけどそれが終わったら一緒にお茶でも…「フランシス」
興奮した様子で菊の両手を掴んでフランシスは話すが背後からかけられた冷たい声で一気に表情を変える。ギギギ、と古びた機械の如く後ろを見たフランシスは想像以上に冷酷な表情をしている声の主を見て青褪めた
「誰が触れて良いと許可した?」
声の主であるアーサーは緑の瞳を不機嫌そうに伏せるとすう、と腕を持ち上げ手の平を突きだす、赤の粒子が浮かび上がると瞬時にそこには炎が収束し紅蓮の火の玉となる、人の頭程の大きさになった火球を見てフランシスは慌てて口を開いた
「ちょ、何でお前そんなに怒って「死ね」
問答無用と手の平から弾丸のような速さで火の玉が放たれる、照準に狂いはなく狙った通りフランシスの顔面に激突した炎は速度がついている分衝撃がありフランシスはもの凄い勢いで地面に叩きつけられることになる。急な展開にまたしてもついていけず菊は目を見開いて硬直していた。土煙がおさまった所で露わになったフランシスは美貌虚しく黒こげで目を回している、一体どういうことだと菊はアーサーを見るが当の本人は至って澄ました顔をしていた
2012.03.29
あとがき
(間がかなり空いてしまい申し訳ありませんでした。続きを希望してくださった方に感謝を込めて、これからはここまで間があいてしまわないように気を付けます…猛省ッ!)