その店は路地裏にひっそりと佇んでいた。
レンガ造りの壁一面に這うアイビーが目に優しい、門から入れば店の入り口へと続く石畳の道の脇にはシクラメン、クリスマスローズ、ポインセチア、色とりどりの植物が品よく植えられている。どれも色鮮やかでよく手入れされていることが見て取れた。店の入り口にはシーズンなこともあって小さなツリーが置かれている、オーナメントが光を受けきらめくのを横目で見て本田菊はやや緊張した面持ちでドアを開ける。ちりん、と控えめに鈴が鳴った。
大学の友人ルートヴィッヒからバイト先の手伝いをして欲しいと頼まれたのは数日前だった。ルートヴィッヒは大学に進学してすぐ大学近くにある親戚夫婦が切り盛りするカフェでアルバイトを始めた。隠れ家的なカフェだが立地とは裏腹に店の雰囲気、サービス、メニューはどれも高評価でリピーターが後を絶たない。口コミからも噂は広まり結構繁盛していることは本田も耳にしていた。だが最近はクリスマスシーズンなこともあって客足が普段より5割増しらしい、店側からしたら嬉しい悲鳴を上げるところなのだが慢性的に人員不足に陥りつつある、例年この時期は短期でアルバイトを雇い数を増やして対応しているようだ。そんな訳で店主から誰か紹介してくれないかと頼まれたルートヴィッヒは友人の本田とフェリシアーノに白羽の矢を立てた。フェリシアーノは暇な時店の手伝いにちょくちょく顔を出しているし本田は涼しい顔で何でも卒なくこなすし責任感もある。もし頼みを受けてくれるならこれ以上心強い助っ人は居ないとはにかみながら笑う友人を目にした本田は、是非やらせて下さい、と二つ返事で了承した。
もし都合がついて嫌でなければとルートヴィッヒは前置きしていたが元々本田は短期のバイトばかりで身体は空いているし何よりも友人に頼りにされているのが嬉しかった。カフェのバイトの経験はないが我が友のためと指定された時間前に店に着いた本田は中へと足を踏み入れる。
「すごい…」
店内の雰囲気にホンダは息を飲む。
そこはカフェの店内というよりもまるで洋館の書斎のようだ、毛足の長い深紅の絨毯に足音を吸い取られながら進むと木目の美しいテーブルとアンティーク調の黒い革張りのソファが整然と並ぶ。部屋の壁際には大きな本棚に洋書の数々がずらりとならび傍には暖炉もあった、インテリアとして飾られた地球儀や女神の彫刻がまた良い味を出している。南側は一面ガラス張りになっており緑が目に鮮やかな美しい庭を眺めることが出来る、店内に居るとここが日本で今が平成の世だということを忘れてしまいそうだ、本田がそう感じてしまう程にこの場所はそこに居るものを圧倒的な雰囲気で飲み込んでしまう。馴染みのない場所だが何故か居心地が良い、いつまでもここに居たいと思わせるような魔力めいたものも感じて本田はほう、と感嘆の溜息をついた。
「本田、相変わらず早いな」
レジカウンターの奥から声を掛けられ本田は我に帰る、店の制服に着替えたルートヴィッヒはシックな出で立ちでいつもと違った雰囲気で新鮮だった。
「ルートどうしたのですか?」
「ああ、ローデリヒ、こちらがスケットを頼んだ友人だ」
「あらあら、いらっしゃいお世話になります」
声に連れられて奥から隣に並んだ姿すら絵になりそうな美しい顔立ちの男女が現れる、店主のローデリヒとその妻エリザベータだというルートヴィッヒから簡単な説明を受け本田はやわらかな笑顔を浮かべ軽く会釈をした
「こちらこそお世話になります、本田菊と申します」
本田の礼儀正しさに感心しつつローデリヒは早速制服を手渡し手伝いの内容を説明する。本田の仕事内容はレジと配膳だ、手伝いと言っても時期的に多忙なのでアルバイトさながらの内容になっている、その分勿論時給はアルバイトと同等のものであるし多忙日の手当てとしていくらか色を付けるとエリザベータは笑って言った。レジと配膳といっても場合によってはレジだけになるかもしれないし配膳のみになるかもしれない、そこは状況に応じて他のアルバイトと連携を取るように配慮するとのことだ。レジの打ち方はルートヴィッヒが開店までにスパルタで叩き込むようだ、安心しろ本田俺がすぐに一人前のレジ打ちにしてやると拳を握りしめて言うルートヴィッヒに本田はお手柔らかにお願いしますと乾いた笑いを漏らした。
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本田がカフェの手伝いをはじめてから3日目、初日は不慣れな仕事の上、来店客の多さも相まって何度か失敗しそうになった場面もあったがルートヴィッヒやフェリシアーノのフォローもありなんとか事無きを得た、だが持ち前の器用さから2日目には本田は与えられた仕事はフォロー無しでも一通りこなせるようになっていた、まだ時々分からないことがあればルートヴィッヒやフェリシアーノに尋ねる場面もあったが時間が経つとともにその回数も減っていく、そして3日目の今日初日程の緊張もなくここ二日で得た経験もあり本田は程よくリラックスした状態でレジで立っていた。幸いなことに今日は月曜だ週末程の客足はなく午前中はスタッフ同士で軽く雑談出来る程度には暇だった。だがお昼のピークも過ぎまた暇になるであろうと思われた14時本田菊はカフェの手伝い至上最大の難関にぶち当たっていた。
「あー、はろー、ないすちゅみーちゅー」
染めた色ではない自然な金髪、堀の深い顔立ち、白い肌。
そう遠目から見ても分かる、彼は生粋の外国人だと。初めての外国人の来店客に本田は眩暈がした。レジに向かう途中目の前の男が携帯で電話をしている様子を本田は見ている、クイーンズイングリッシュをよどみなく紡ぐ様は映画のワンシーンのようだと感心したのも束の間レジの前に男が来た瞬間どっと緊張が押し寄せる。英語は、英語だけは…と本田は頭を抱えたくなった、成績は悪くなかったがいざ話すとなるとてんで駄目だ、中学校から高校まで授業で教科書の朗読をする度クラスメイトに笑われた経歴は伊達ではない。もしかしたら日本語が通じるかもしれないと取り敢えずいらっしゃいませと挨拶したものの本田を見た男は何故かはっとした様子で目を丸くした。あ、通じてないですねこれ、と本田が心中で滝のような涙を流しながら混乱する頭で絞り出した英文がまた的外れで発音も独創的だ、しかも少し噛んでいる。本田がそれに気付いたのは言った後だが時は戻せない。
(今すぐ帰りたい)
部屋に引きこもりたい衝動と葛藤している中、目の男はふ、と微笑みを浮かべた。眼差しがあたたかい優しげな笑みだ、予想外の表情に本田の目が奪われる。
「大丈夫ですよ、日本語話せますから。気を遣って頂いてありがとうございます」
甘い声が耳に心地良い、聞こえてきたのはこれまた流暢な日本語でしかも本田を気遣う内容だ、本田の肩から一気に力が抜ける。最大の壁はいとも容易く崩された、余裕が出来たと同時に本田は目の前の男を見て驚く
男は恐ろしい程の美貌の持ち主だった
雪のように白い肌に整い過ぎた目鼻立ち、眼鏡の奥の瞳は見事なまでのエメラルドグリーン、彩る髪は金細工のようで、陽の光を浴びそのまま消え去ってしまうのではないかと思うほど透き通り煌めいている。どうして今まで気付かなかったのか不思議なくらい非現実的な美しさだ。
それに加えて格好がいけない、ダークグレーの生地に白のストライプのスーツ、インナーにはブラックのシャツ、バーバリーのグリーンを基調としたタータンチェックのタイ、黒いコートで全体をまとめている。すらりとした体躯に上品な着こなし、かけられた眼鏡が冷静そうな印象を与え、所作の一つ一つですらどこか優雅さを感じさせる。
(綺麗だ…)
男性に使うのは不適当とは思いつつもそう思わずにはいられない。先程の自分の失態も忘れて本田はただ見とれた。スーツ姿からビジネスマンであることは分かるが勤め先は普通の会社ではないだろう、そんなありふれた場所にこんな人物が居る訳がない、とある外国の王族がお忍びで来日し人目を眩ますためにスーツ姿でビジネスマンの振りをして一般人として紛れこんでいると考えた方がまだ現実味がある。一般人とはかけ離れた洗練された雰囲気がただ者ではないと何よりも雄弁に物語っている。
「すみません、アッサムとスコーンをお願いします」
よくなめされた黒の革手袋に包まれた指がメニュー表を指す、ただ瞳を伏せただけなのに男からはえも言われぬ色気が漂い本田はなんだかいけないものを見ているような気分になり目を反らす、同性の本田が戸惑う程、男は容赦ないまでに美しかった、内心ではそんな気分になってしまった自分を戒めつつ表はなんとか取り繕いながら本田はオーダーを受ける、会計を済ませた後男は席へはすぐ向かわずにその場に留まった
「失礼ですが新しく入られた方ですか?」
「ええ、友人に頼まれてこの時期だけお店のお手伝いをさせて頂くことになりまして…本田と申します、先程は大変失礼しました」
「いいえ、気にしていないので大丈夫ですよ」
己の失態をさらりと水に流した男に本田はほっと胸を撫で下ろした、そんな本田を男は深い森のような瞳でじっと見つめる。その眼差しに微かに熱が篭っていたことに本田は気付かず何か用事でもあるのだろうかと首を傾げると男ははっとしたように瞬きをした
「本田さんですか良い名前ですね…私はアーサーと言います」
「アーサーさん…」
本田の言葉に非現実的な美貌の主は目を細める
「このカフェは仕事の合間に良く利用させて貰っているんです。また明日も来ます」
アーサーはどこか名残惜しそうに本田を見詰めて店の奥へと踵を返す、翻るコートの端を視界の隅で捕えて本田は緊張を解く。何せ息を呑むような美貌の外国人だ、本田の対来店客の経験値で相手をするにはレベルが高すぎる。
『良い名前ですね』
脳内で言葉がリフレインする
「菊ー、オーダーの分出来たよー」
「あ、はーい、ありがとうございます」
現実に引き戻すように奥からフェリシアーノの声がする、カフェの来店客数は時期もありかなりの数だ、仕事の忙しさからその中の一人のことなど一日の終わりには記憶から掻き消されてしまうはずだった、けれども何故だろうカフェが閉店の時間になっても本田の頭にはあの静かな緑の瞳が鮮烈に焼き付いていた
2015.3.29
あとがき
(お久しぶりです久々に文字を打ちました、以前にも増して遅筆になっていて時期はずれですが多めに見て頂けたらありがたいです)